大阪駅を追われた噴水小僧の展示を見て来た&失われた相方の写真を発見

大阪駅の歴史を100年以上見て来た噴水小僧が、再び居場所を無くします。

噴水小僧は高さ1.2メートルの銅像。腹掛け姿で、頭上にハスの葉を掲げている。明治中ごろの制作とみられ、明治34年に開業した2代目大阪駅の正面玄関車寄せの左右に一対が設置された。当時は、竜の口から出る水を、ハスの葉で受け止めていたという。ひしゃくも用意され、利用客がのどを潤したとされる。


 昭和15年に3代目の駅舎が完成し、噴水小僧は中央コンコースに移された。もう1体は建て替えの混乱で行方不明に。噴水小僧は、大阪駅の歴史を物語る貴重な資料として、旧国鉄によって昭和38年に「準鉄道記念物」に指定された。

MSN産経ニュース 大阪駅で1世紀超…あの噴水小僧、見納め? 展示、今月末で終了(2011.8.22 14:29)より。 ウェブ魚拓


写真は「大阪駅の歴史」(2003年、大阪ターミナルビル株式会社)より。



二代目大阪駅駅舎。「絵はがきで読む大大阪」より。二代目駅舎時代の噴水小僧の写真は、何故か見つかりません。ここから見えて良いはずなのに。

待ち合わせ場所として親しまれて来ましたが、駅のリニューアル工事のため2004年3月に撤去。今年5月に大阪駅大阪ステーションシティとしてリニューアルオープンしても、「近代的な駅のイメージと合わない」という事で駅に戻る事は出来ませんでした。初代大阪駅で時鐘として使われたという鐘を飾ったモニュメント「旅立ちの鐘」*1も2010年11月に撤去され、大阪駅の倉庫に仕舞われています。


その後6月14日から大阪環状線弁天町駅の交通科学博物館で期間限定で展示され、想い出ノートも設置されました。しかしそれも、8月31日限りで終わります。



6月18日に見に行って来ました。

下にあるのは雑魚取り網らしい。

こんな顔だったんですね。恥ずかしながら、駅にあった頃には意識した事がありませんでした。

蓮の葉状の水盤の上。

分かりにくいですが金太郎のような腹かけをしているのが、現存する方の特徴です。


噴水小僧の制作時の事については、「ずっと噴水が好きだった」の6月2日の記事が大いに参考になりました。当時の大阪毎日新聞の画像も見られます。


噴水小僧の制作者は工部美術学校出身の菊地鋳太郎*2


昭和10年4月22日の大阪毎日新聞の「新たに生れ変る大阪駅の今昔 感慨ひとしほのその生ひ立ち 本社主催ゆかりの人々座談会」では

阿左美孝一氏(※元大阪駅助役):ところであの車寄せのところの噴水小僧はどうするのですか、あれは京都大学の先生が作られたとかで当時は芸術品としても立派なものだといはれてゐたのですが・・・・・・


前田駅長:記念に保存して、新駅のどこかに使ふことになっています。

というやり取りがありますが、京都大学の先生というのは間違いみたいです。


大阪駅物語」(昭和55年、朝日新聞社)P194では、二代目駅舎開業の2年後、明治36年(1903年)に天王寺で開催された第五回内国勧業博覧会に出品された5体のうちの2体が駅に贈られたとされています。
しかし第五回内国勧業博覧会美術出品目録には載っていないし、「ずっと噴水が好きだった」で引用されている当時の資料では確かに二代目駅舎開業に合わせて制作した事になっているし辻褄が合いません。


同ブログ管理人の松崎貴之さんは、「内国博に展示されたという話は、おそらく内国博の会場にあった『楊柳観音噴水』の子供の像との混同によるものだと思います」と推測しています。
http://124.83.175.223/eigajin/3481708.html
楊柳観音噴水(1903年) ( 大阪府 ) - ずっと噴水が好きだった - Yahoo!ブログ
特に新聞記事で「一人は起て水盤を手にして水瓶の水を受け、」と表現されている像は、確かに様子が似ています。

交通科学博物館で、こんな資料も展示されていました。


上の写真帖は何故か違うタイトルになっていますが、大阪市立中央図書館所蔵の「大阪駅改築記念仮駅写真帖」(佐々木豊写真館、皇紀2597年=昭和12年)と同じ物と思われます。
このページには六〜十代目駅長の顔写真と「旧駅全景ト車寄ノ噴水小僧」が載っています。


二代目駅舎の俯瞰。高架化工事が始まっている様子はありません。右手前の窓が並ぶ白い建物は「大阪駅食堂」(右書き、駅は旧字)と読み取れます。

駅舎付近を拡大。

何気なく右に載っている噴水小僧の写真、実はこれは行方不明になったもう一体です。上の竜の口から水が噴き出していたそうです。

比べると、ポーズも違う事が分かります。

 久しぶりに日の目を見た噴水小僧。大阪府河内長野市の主婦(62)は「友達と遊びに行くときは『噴水前に集合』と約束した。大阪駅のシンボルだった」と振り返る。


 同じ思いを抱く人も多く、ノートには「幼なじみとの旅行で、待ち合わせをした」「こんなところで会えて感動した」などとつづられている。だが、噴水小僧を所有するJR西日本によると、今後、大阪駅に設置する予定はないという。保管する交通科学博物館も「常設展示の計画はない」としており、再びお蔵入りする可能性が高い。

先の産経の記事より。
また大阪駅に置けば良いのに。


噴水小僧は、再び何年も倉庫の木箱*3で眠る事になるのでしょうか。



これも二代目大阪駅の遺産と言えるでしょう。大阪駅昭和9年9月18日に押された記念印(駅スタンプ)です。二代目駅舎は昭和10年6月から建て替えのため取り壊されました。77年前だから押した人がもし今生きていたら恐らく90代以上、どんな人だったのかな。

大阪城(その右のは?)、工場の煙突、二代目駅舎、ライオン橋とも呼ばれる難波橋大阪市章の澪つくしがデザインされています。
ゆうゆうぜん歩録 見知らぬ人の戦前の記念スタンプ帖 その1 その2
↑大阪人と思われる前所有者の行動と心境を分析しています。こういうのって想像力を掻き立てられますね。


二代目大阪駅を紹介ついでに、阪急百貨店側からの風景を定点対比してみます。

初出は大正3年の「大阪府写真帖」。地上駅時代の構内(左奥に駅舎)と二代目駅舎外観。左下の円内を、先のスタンプと見比べてみて下さい。。
当時まだ阪急百貨店は無いですが、どこから撮っているのでしょう?

阪神間鉄道回顧録 辻圭吉写真集」より。左が駅舎、昭和4年に建った阪急百貨店との位置関係が分かります。右を大阪市電が走っています。

阪神間鉄道回顧録より。阪急百貨店屋上から。昭和9年6月1日の高架化のための工事が進んでいます。

三代目駅舎。昭和36年(1961年)の喜劇映画「猫と鰹節」*4(堀川弘通監督、森繁久彌主演)より合成。副題は「ある詐話師の物語」。


大阪が舞台で、遠くから大阪駅に到着した商人・西村晃森繁久彌が儲け話を持ち込む所から物語が始まります。詐欺なんだけどね。通天閣の外階段も重要な場面で登場。VHSが大阪府立中央図書館に所蔵されています。

昭和53年(1978年)の「明治大正大阪百景」より。駅舎が黒ずんで来た?右端に朝日放送大阪タワーホテルプラザ

平成18年(2006年)8月2日柚耶さん(神奈川井総社)撮影 阪急グランドビルから。三代目駅舎は、四代目と言えるアクティ大阪に建て替えられました。大阪タワーはまだ有ります。

平成22年(2010年)10月1日撮影 大阪ステーションシティの工事が進み、ホームに大屋根が出来ました。おととし解体された大阪タワーの隣にホテルプラザは昭和53年の写真と変わらず残っていますが、最近解体工事が始まりました。
旧ホテルプラザ 2011年8月22日の解体状況: 陽は西から昇る! 関西のプロジェクト探訪


ゴリモンな日々 | 大阪駅いまむかし その2
大阪駅ターミナルビル新築工事の推移(昭和55年~定点撮影) - 阿房列車ピクトリアル
阪急グランドビルからの昭和55年前後の眺めがこちらで見られます。




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*1:交通科学博物館にも「旅立ちの鐘」の時鐘とは別に鉄道記念物の「大阪駅の時鐘」が保存されていますが、両者の関係ははっきりしていません。

*2:雑誌『太陽』第7巻第3号の吉岡芳陵の文章と、1918(大正7)年4月発行の『美術新報』156号に菊地鋳太郎自身が寄せた「工部美術学校時代」という文章で触れられているそうです。

*3:asahi.com(朝日新聞社):「噴水小僧」「旅立ちの鐘」 新装大阪駅に居場所なく にある表現。 ウェブ魚拓1 ウェブ魚拓2

*4:原作はドラマ「部長刑事」の原作者の一人、佐川桓彦(佐川恒彦は誤り)の小説「東京駅」らしいですが、東京駅は登場しないのが謎。同氏は「大阪駅」「詐話師」も書いていますが、前者はストーリーの関連は無く後者は未読。3冊とも大阪市立中央図書館に所蔵されています。