大阪駅新乗換通路を見物&工事前と定点対比

関連→月光仮面に見る昭和30年代の大阪(1)大阪駅前1 - きーぼー堂

11月9日、1日に使用開始された大阪駅の新乗換通路を見物しに行って来ました。

ホームから見る大屋根。良く言われますが、ヨーロッパの終着駅のよう(参考:フランクフルト中央駅)。大阪駅も変わったもんだ。

2日前の11月7日に営業運転を開始したばかりのキハ189「はまかぜ」が4番線に入線!

鉄道ファンの注目を浴びていました。


新しく出来たエスカレーターで上へ。

乗り換え通路はこんな感じ。

エスカレーターの手前

エスカレーターを下りながら上からホームを見渡す事が出来ます。今までに無い視点で新鮮!


●改良工事開始前と定点対比
2001年…中学生の時に撮った写真を中心に、昭和時代の分も含めて定点対比してみました。その頃大阪駅で撮った写真はあまり多くなく、今回は大阪環状線ホームと旧11番線の写真は除外しました。



大阪駅では2005年にホーム番号の設定が無かった大阪環状線内回り・外回りホームが1・2番線とされ旧1・2番線は3・4番線となり、その後工事が進み以降のホーム番号も数が2つ足されています。新旧写真で撮影したホームは必ず同じですが、ホームのどの位置かは一部を除いて割と適当*1です。

阪急との上下切り替え工事を終え、大阪駅高架化初日の混雑。8番線にC53が牽く列車が進入しています。
参考:十三のいま昔を歩こう 阪急梅田駅の歴史 2 省線切替工事篇

高架化翌日、昭和9年6月2日の大阪朝日新聞の「勝手が違ふ新駅見物 氾濫する旅客 然し握っているのは入場券」の一部。
当時高架駅は珍しかったようで、見ていると三人に一人は乗車券でなく入場券を買い、本来通過する客でも降りてみる人が多かったとか。「待合室から汽車の見えた昔とは違ふねえ!」と締められています。

昭和9年高架化当時の絵葉書。機関車はC51、7番線からの撮影で右は5・6番線ホームです。線路が三本並ぶのはここだけでした。1〜4番線はまだ地上のようです。「鉄道唱歌の旅 東海道線今昔」より。つばめno巣トップページ中ほどに拡大画像があります。

2001年10月20日撮影(以下2001年は同日) 中央の通過線はJR発足時には残っていたらしい。

2010年11月9日撮影 右のホームがこちら側に拡幅されて線路が移動したため電車が近く見えます。
拡幅工事は先月行われ、我が人生の垢 番外 大阪駅ホーム改造? 04に工事中と完成後の写真があります。

2001年10月20日撮影 旧7番線に入線する京都行き205系。左は荷物用エレベーター。

ビルの間隔からするともっと東のはずですが、これ以上下がっても隠れて分かりにくいので。JR横浜線沿線から引っ越して来たので東海道本線205系には親近感を感じていたのですが、阪和線へ移ってしまって中々乗る機会が無いのが残念です。

2001年10月20日撮影 同じ編成を西寄りから。

乗換通路が出来たため、今は観覧車が僅かに見えるのみ。

旧1番線に停車する「北近畿」11号城崎行き、クロハ183-805。右は大阪環状線ホーム。小さい子が出て行ってお母さんに戻されたのだけど「写っちゃうでしょ!」という事だったのかな?

現在の3番線(旧1番線)ホーム。これはバッチリ同じ場所です。もしかして階段の幅広がってる?

2001年10月20日撮影 あまり変わり無いので現在の写真省略。この後福知山線(クハ200-123、川西池田からクハ206-1072)で宝塚まで行きましたが大阪駅でこの写真でフィルムを使い切ったたため写真がありません。

昭和30年4月30日、大阪駅でのC59 184を先頭にした重連の客車列車。荻原二郎「総天然色で見る昭和30年代の鉄道  西日本編」より。昭和31年11月の東海道本線全線電化前は蒸気機関車の天下だったといいます。
その後も蒸気機関車牽引の福知山線定期列車が昭和43年3月改正まで残り、それでもしばらく臨時列車に使われていました。大阪駅に最後に蒸気機関車が姿を見せたのは、昭和51年9月4日の京阪100年号運転時です。

蒸気機関車を見ている親子が微笑ましい。

拡大すると、ここが2番線である事が分かります。桜島線?モハ73が見えます。

現在の4番線(旧2番線)ホーム

昭和9年7月20日、吹田〜須磨間で電車運転開始。写真は当日朝*2大阪駅8番線の上り電車(進行方向は前方)。帽子の人が多いですね。「大阪駅物語」より。

旧8番線・現10番線(左)は今では全然使われていません。この階段で良いかは不明。

満州国皇帝・溥儀が皇紀2600年を祝うため来日した際、昭和15年7月6日午前9時40分に大阪駅に到着したお召し列車を迎える半井大阪府知事・坂間大阪市長と軍の有力者たち(約130名と書かれている)。
機関車はC51 276、御料車国賓用の10号御料車が使われたようです。

現在の6番線(旧4番線)ホーム。こんな身近な場所が歴史の舞台になっていたとは…。




大阪朝日新聞昭和15年7月6日夕刊にその時の様子が書かれています。溥儀は11日間の滞在のうち京都大宮御所で4夜を過ごし、7月6日出発して京都駅からお召し列車に乗車しました。

物静かな京洛より大阪に進ませられた皇帝陛下には吹田あたりから沿線に林立する煙突などを御覧ぜられ、商工都市大阪の躍動する様相にとりわけ御関心を寄せられつつ午前九時四十分大阪駅御着、最後部御召車より四番線フォームに降り立たせられた。



昭和十年御来訪のみぎりの御思ひ出の大阪駅もけふは新装も逞しく奉迎の光栄に一際かがやいてみえた。皇帝陛下にはフォームにお出迎への李王垠殿下と十四ヶ月ぶりにて御なつかしき御対面、御にこやかに固き御握手を交させられた。

この前月の昭和15年6月、大阪駅3代目駅舎が上から鉄骨が突き出た姿ながら一応竣工しています。溥儀は前田大阪駅長、木村大鉄局長の先導で階段を下りてコンコースへ。


駅前広場西側に大阪府下各市長、府市会議員、大阪毎日新聞大阪朝日新聞社長ら約340名が整列する中、正面玄関から自動車に乗り、市民の熱烈な歓迎を受け御堂筋を通って大阪港へ。軍艦「日向」で帰途につきました。

11月24日撮影、29日追加 
溥儀が乗車した10号御料車は、現在大宮の鉄道博物館に保存されています。
大正11年イギリス皇太子エドワード・アルバート公(後のエドワード8世、ウィンザー公)の来日に際し鉄道省大井工場で製造、御料車として唯一展望デッキを備えています。戦後はGHQに接収され、連合軍専用列車「オクタゴニアン」の編成に組み込まれました。



ガラス越しの上に引きが取れないので綺麗に撮るのは困難。


ホーム上屋を支える鉄骨柱は変わらず!大阪駅の歴史を昭和9年以来76年間見続けて来ました。

真ん中にポツンとあるリベットを目印に下に数えてみると、リベット1つ分と土台がホーム嵩上げで埋もれたようですね。
このタイプの古い鉄骨柱は他のホームにも数多く残っています。旧来のホーム上屋は大屋根が完成したため近いうちに撤去される予定ですが、鉄骨柱も少しは残して欲しいものです。
昭和6年に高架化された三ノ宮、元町、神戸、兵庫駅にも同様の鉄骨柱があります(設置は高架化の数年後かも?)。

この鉄骨柱は「流電」モハ52も見ていたんだなあ。「関西国電50年」より昭和12〜14年頃の写真。


●アルバムから


大阪駅旧1・2番線ホームでの私と祖母。これから福知山線に乗るところ。



1枚目の大阪環状線の朱色の103系は今も現役でさほど珍しくもありませんが、2枚目の福知山線の黄色(カナリヤ色)の103系は今は見る事が出来ません。

無くなった正確な時期は分かりませんが、鉄道ファン2001年7月号「カナリヤ色電車 走って40年」に「車体の外板塗色もスカイブルーに変更されつつあり、関西圏唯一のカナリヤ色電車も違い将来姿を消すものと思われる」とあり、後に103系自体も福知山線から撤退しました。


左の窓付きの建物が現在見当たらないので位置の特定は無理でした。当時は鉄骨柱の土台が露出していたみたい。

*1:北近畿」とお召し列車の写真は確実に同じ位置

*2:大阪駅物語」には昭和9年としか書かれていないが、初出は大阪朝日新聞 昭和9年7月21日夕刊2面。ちなみに当時は夕刊は翌日の日付が表示されていた。