阪急甲陽線で大正・昭和の面影を探す
阪急甲陽線は阪急電鉄の中でも影の薄い存在なのか、阪急の社史「100年のあゆみ」(2008)には1枚も写真がありません。「75年のあゆみ 写真編」(1972)には1枚。鉄道ファン向けの書籍・雑誌でも大抵は車両、本線、ターミナル駅中心で甲陽線自体が重点的に取り上げられる事は稀です。
そこで今回は文献とツテから甲陽線の古写真を集め、現在の風景も撮影しました。
開業86年にして変革を迎える阪急甲陽園駅、1983年の阪急甲陽園駅前などを定点対比にも昔の写真を掲載しています。
●夙川駅
昭和7年の夙川駅神戸線ホームと、停車中の甲陽線電車。時代の割に非常に鮮明です。「西宮の今昔」より。
左を拡大、大阪(梅田)行きの電車を待つ人達。着物姿が目立ち、男性はカンカン帽を被っています。
右を拡大、「六甲ラヂューム温泉苦楽園」の看板に注目。甲陽線電車は1形3。夙川駅では昭和30年4月に7号、昭和37年4月に317号、昭和43年6月5日に663号(2両編成)の甲陽線電車がホームに激突する事故が起きています(資料不足で間違いがあるかも)。右の母子?は何をしているのでしょう。
大阪行き900形が915を先頭に到着。「阪急ワールド全集(4)阪急ステーション」より。900形900は正雀工場に保存されています。木の枝ぶりも同じで先の写真と同日の撮影のような気もしますが、ホームに置いてあったじょうろがこちらには有りません。
2010年7月18日撮影 現在は同位置から甲陽線の電車は見えません。
2010年8月4日撮影 強引に同じ画面に神戸線と甲陽線の電車を収めてみました。
見えないのも当然で、昭和40年代まで甲陽線ホームは1面2線の島式ホームだったからです。1形は今は無い西側の線路に停車しています。
昭和18年、神戸線ホームから見た甲陽線ホーム西側に停車中の37。阪急甲陽線開通50周年記念切符にも使われた写真。「阪急ステーション」より。
2010年8月4日撮影 甲陽線ホーム(東側)に入線する6000系。旧景の場所からは壁に遮られて何も見えず、甲山は今ではホームからは見えにくくなっています。
「阪急電車駅めぐり 神戸線の巻」より、北西から見た甲陽線ホームに停車中の3。これも昭和7年。
2010年7月28日撮影 現在のこの辺り。ホーム西側の線路跡は売店など(昭和52年3月開店)が建っています。
甲陽線ホームの目の前の相生町踏切。右の線路は回送電車が通る神戸線への渡り線で、ホームにぶつかる直前で西に向かって大きくカーブしています。今は埋められていますが、かつては真っ直ぐ行った先に電車が停車していました。
●夙川駅〜苦楽園口駅間
昭和30年代初め 生地健三さん撮影、朝風さん提供 甲山は昭和21年の山火事で半分禿げています。鉄道ピクトリアル2010年8月号臨時増刊号 阪急電鉄に掲載されている昭和37年の写真ではもっと住宅が増えています。
2010年6月6日撮影 松生町の学校道踏切付近です。右側に住宅が建ち並んで同じ位置では撮れません。
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右の鉄塔、送電線と甲山の間の開き具合から大よその場所を特定出来ました。一つ南の久出川踏切からでは送電線が甲山に重なってしまいます。
2両編成の先頭は300形317、後ろは恐らく316。300形316・317は1形7・8に代わって甲陽線に入線し、317は昭和37年4月に夙川駅の車止めに突っ込んで車体を破損、廃車になっています。西宮車庫での廃車体の写真→里山工房 〜古い車輌の写真〜阪急今津線 4 300形
2002年11月16日撮影 300形のうち301の車体の一部が宝塚ファミリーランドの宝塚のりもの館に保存されていましたが、閉園後は正雀工場に移されています。
微かに運転士の姿が見えます。
2010年7月28日〜8月3日に阪急西宮ガーデンズで開催された企画展「阪急神戸線開通90周年記念〜私たちの街の阪急電車」で展示されていた甲陽線の方向板。
「阪急電車駅めぐり」より昭和14年の写真。昭和15〜16年頃、甲陽線は乗客が少なすぎて廃線にする話があったそうです。*1昭和初期に甲陽園の遊園地が無くなり、苦楽園のラジウム温泉が昭和13年7月の阪神大水害で枯れてしまった事で甲陽線の乗客は激減し、目論見がはずれた形になったと思われます。
2010年7月28日撮影 先ほどの学校道踏切の一つ北の松生町北踏切です。道の曲がり具合で分かります。この場所のGoogleストリートビューが撮影された2008年当時、奥のマンション「プレティナージュ苦楽園」は建設中で今より良く山並みが見えたようです。
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前の地図より縮尺拡大。
2010年8月4日撮影 踏切のすぐ横にはあの鉄塔があります。
「建設年月 大正12年12月」とありました。大正12年=1923年、甲陽線開通の1年前からもう87年近くもここに建っているんですね。
●苦楽園口駅〜甲陽園駅間
昭和20年代末 生地健三さん撮影、朝風さん提供
2010年6月6日撮影 水道路踏切。ハルヒの舞台としてもおなじみです。当時どこから撮ったのかと思いましたが、満池谷墓地が拡張する前は自然のままの丘陵地があったようです。懐古趣味の鉄道写真帳 思い出の阪急旧型電車達 194:甲陽線の665番
踏切には標識すら無し。車両は1形8、阪急の前身の箕面有馬電気軌道が創業時に用意した1形のうちの1両です。1号車が正雀工場に保存されています。当時甲陽線には1形7・8が居て、昭和30年4月に7が夙川駅の車止めに突っ込んだ事故を機に同線から1形は去り前述の300形316・317に代わったそうです。
●甲陽園駅
宮っ子より、大正時代の甲陽遊園地。甲陽園は大正7(1917)年に開発が始まり大正9(1919)年に開園。温泉、旅館(つる家など)、劇場、植物園、各種の運動器具が完備された800坪の大運動場(写真参照)などの娯楽施設、東亜キネマの映画撮影所が造られ、大正13(1923)年に甲陽線が開通しました。「甲陽園」は「東洋一の大公園」と宣伝されました。この時代が甲陽園の全盛期でした。
阪急夙川へ25町(約2.7km)の新道路が開かれ自動車で8分で達する事が出来、甲陽線の開通前は夙川東岸の堤防は車の洪水だったといいます。
甲陽線は元々は苦楽園のラジューム温泉と甲陽園の遊園地(共に今は無い)を結ぶ観光路線だったのです。
駅の隣にある建物は甲陽劇場です。「西宮の今昔」より。
「甲陽遊園地大釣橋」彩色絵葉書。「阪急ワールド全集1 阪急コレクション」より。
昭和に入って*2甲陽園は衰退して遊園地は閉園、映画撮影所も移転し、住宅街に変わりました。
2010年7月28日撮影 甲陽園駅の西の丘から見た現在の甲陽園。
駅舎だけは変わりませんね。この駅舎は私の祖父と同い年です。
2009年4月5日撮影 甲陽園駅南西から。甲陽遊園地及びその周辺回想図を見ても全盛期の様子を想像するのは難しいです。この角度では駅は見えません。昭和初期の写真の場所は無理でした。
●甲陽遊園地について更に知りたい方は
宮っ子検索システム→ことば検索→地域「指定無し」で「甲陽園の歴史」または「甲陽 今昔」で検索すると1981年と2001〜2002年にまとめられた記事を読む事が出来ます。
当時の一次資料は国立国会図書館近代デジタルライブラリーで手軽に閲覧可能な阪急沿線案内(大正13年)、大阪府立中之島図書館・大阪市立中央図書館所蔵の写真9枚入りで紹介されている大大阪画報(昭和3年6月発行)をお勧めします。
現在80代という生地健三さん撮影の写真は朝風さんを通してご本人に掲載許可を頂き、撮影年代、撮影場所は独自に推定しました。生地さんは株式会社イクチの会長(先代社長)です。
元国鉄職員の祖父が所有する国鉄王寺駅新築落成記念プレートはイクチ製品です。生地さんもこれを覚えているとの事。
雑誌「鉄道ファン」に掲載の広告。梅小路や大井川鉄道の蒸気機関車のナンバープレートはイクチ製だそうです。
*1:宮っ子2006年7月 私の甲陽園 第3回 阪急電車とのどかなころの甲陽園
*2:「大大阪画報」が発行された昭和3年当時はあった模様。昭和10年6月18日神戸又新日報「甦える甲陽園 : 近く師団長宮殿下が御視察 : 蜘蛛の巣の如く道を拓いて : 華々しく再出発」では「過去十数年間荒るるにまかせ荒廃し切った阪急沿線西宮市甲陽園は〜」と書かれている。